nano-blog

学びの集積

正しい努力とは

何らかの成果を出したいのであれば、努力を要することが多いが、効果的に成果を出すためには、努力は努力でも「正しい努力」をすることが重要だ。

僕は持たざる者なので、貴重なリソースを有効に使うべく、「これは正しい努力か?」を常に問うようにしていて、なんでもかんでも努力しないようセーブしている。

 

では何が正しい努力なのか?

僕はすごくシンプルに、「目的を達成するために必要なこと」であれば正しい努力である、と考えているが、いくつか重要な要素があるので、頭の整理も兼ねて簡単に書いてみたい。

努力の方法を問うのではなく、そもそも何をすべきかを考える

僕の勝手な考えなのだが、努力について何か語られる時には、努力の方法にフォーカスが当てられることが多いのではないか。

どのように勉強したのか、どのように仕事をしているのか、どのように情報収集しているのか、等々。

もちろんこういった方法論も重要なのだが、もっと重要なのは「何をするか」だと考えている。

 

努力というのはつまり、自分の持っているリソース(時間、お金、意志力等)を、ある1つのことに投下するということである。

そのため、そもそも何にリソースを投下するかが最初の問題となるはずで、努力の方法よりも「何に努力すべきか」をもっとしっかり考えるべきだ。

無駄なことにリソースを使ったら、全てが無駄になる。

 

では、何を持ってリソースの投下先を決めるのか。

それは「自分の目的を達成する上で効果的かどうか」という1点に尽きる。

 

目的によって正しい努力は変わる

例えば、超卑近な話だが、年収を上げたい人がいたとして(僕も含めて多くの人は上げたいだろう)、そのために頑張って資格取得のための勉強をする、というのは正しい努力だろうか?

 

もし現在の年収が500万円で、1年後に600万円に上げたい人だとして、その人が勤める会社では指定された資格を取ると年収が100万円上がるという制度がある場合には、資格取得のための勉強は「正しい努力」と言える可能性がある。

でも、実はその人のスキルは結構人材市場では評価されるもので、転職すれば2ヶ月後には達成できるので、資格なんかわざわざ取らなくても良いよね?という可能性もある。

また,目標とする年収が1,500万円であれば、また話は違ってくるだろう。

 

こう考えていくとわかるのは、目的(目標の年収、そしてそれを達成するための期間等)によって、何が正しい努力かは変わるということだ。

正しい努力のための意志決定

もし自分なりの目的を決めることができ、かつその目的を達成することにコミットする(目的を達成するために必要なことは何でもやると決める)ことができていると、実はもう正しい努力の半分くらいは完了している。

なぜなら、目的を達成する上で何がベストな選択なのかを、フラットに判断することができる状態になっているからだ。

周りがやっているから、今流行りだから、といった理由ではなく、「自分の目的を達成する上で、合理的な選択か?」というただ1つの基準を軸に、選択肢を検討できる。

 

ベストな選択肢がわかれば、あとは実践するのみだ。

ここからはひたすら努力の積み重ねなので、努力の方法(つまり、いかに効率的に努力するか)を追求していってもよい。

しかし、最初に問うべきはあくまでも「目的達成のために、何をすべきか」である。

正しい努力ができない時

僕が自分で「正しい努力じゃないかも」と思う時には、上記の整理がちゃんとできていないことが殆どだ。

よくあるのは、「周りがやっているからやる」という形で、非効率的なリソースの使い方をしてしまうことである。

本当にこの勉強はする必要があるのか?本当にこのアクションは必要か?みんながやっているからといって、自分もやる必要が本当にあるのか?

こういったことを、自分の目的に沿って、常に問うていく必要がある。

もちろん、遊びがあることも大事

一方で、「よくわからんけど、なんとなく面白そうだしやってみるか」というユルい精神も人生には必要である。

自分の目から見えていることだけで何かしようとしても、どこかのタイミングで頭打ちになる。

自分の知らないことを取り入れて、可能性を広げ続ける意味でも、あえて「正しい努力」から外れることを試してみるのは重要なことだ。

 

でも、あくまでも基本は「正しい努力」ではないかと考えている。

僕も気づくと徒然なるままに流されていることがよくあるのだが、自分の貴重なリソースを有効に使うために、正しい努力ができるように心がけている。