ここ10年以上、書店やAmazonで本を買い、カフェや家、移動中等に少しずつ読むことが、僕の生活の一部を占めている。
本棚にある本を再読したり、気になった本をちょっと読んだりすることも多いので、正確な数は把握していないのだが、平均して少なくとも年間100冊は読んでいるので、読書家とまでは言えないかもしれないが、おそらく世の中の多くの人よりも本を読んでいるだろう。
ところが、小さい頃から読書が好きだったのかというと、全くそんなことはない。
実のところ、大学に入る前(18歳くらい)までは全くと言っていいほど本を読まなかった。
文章を読むのが苦手だったわけではないのだが、本というと読書感想文の準備や課題図書として「読まされる」ものだという意識が強く、その頃の僕にとって読書=つまらないもの、という方程式が出来上がってしまっていたのだ。
それでは、何をきっかけに本を読むようになったのか。今回はその話を簡単に書いてみたい。
きっかけは「英語」と「脱小説」
結論を先に言ってしまうと、本を読むようになったきっかけは、「英語力を上げたかった」ことと、「小説以外の本を知った」ことの2つである。
まず「英語」についてだが、大学受験のために否応なしに苦手な英語を勉強することとなった僕は、学習を進めるにつれ、「そもそも日本語で読んで理解できないことは、英語で書かれていたら全く理解できない」という当たり前のことに気づいたことから始まる。
逆に、日本語で読んで少しは知っている内容だったりすると、英語で書かれたものを理解するのはかなり楽だ。
そのため、非常に単純な話だが、英語で理解できる範囲を広げるために、日本語で書かれたものをもっと読む必要がある、と考えて本を読み始めたのだ。
そして「脱小説」だが、僕はそれまで読書=小説(物語)を読む、ということだと考えていた。学校や、自称本読みの大人が薦める本は、大体が小説だったからだ。
しかし、英文読解で出てくる文章は基本的に論説文、つまりノンフィクションである。小説と異なり、ファクトと著者の意見が内容の中心だ。
小説以外の本をあまり知らなかった僕は、ノンフィクションを読んで痛感した。僕は「本を読むこと」が好きではなかったのではなく、「小説を読むこと」が好きではなかったのだ。
自分の知らないファクトを知り、またそのファクトを軸に論理的に提示されている意見を理解することは、僕にとって非常に面白かった。
今まで1人で考えていたテーマが、色々な人によって考えられ、深められ、語られていることを知り、もっと深く理解したいと考えるようになっていったのである。
このような自分の中の地殻変動が、受験をきっかけとして高校3年〜大学1年の間に発生し、僕の読書習慣が少しずつ始まっていった。
読書ほどコストパフォーマンスの良い活動はない
本を読むことを少しずつ始めていくと、読書ほど安価で、時間も場所も選ばず、多くの学びを得られる活動はない、ということに気づき始める。
貧乏大学生だった僕は、好き放題に自分の欲しい本を買うということはできなかったが、安価な文庫・新書を中心に買い、古本屋や大学図書館も大いに利用し、とにかく手当たり次第に読みまくるようになった。
初期の読み方は、いわゆる「乱読」である。
何しろ今まで殆ど読書をしていなかったので、何を読んでも学びがあるし、僕は物事を知ろうとする時に、その全体像を知ろうとする傾向があり、自分なりの「知の全体像」を掴むために、領域を越境しながら縦横無尽に読み続けた。
無作法ながらも読み続けていると、本の読み方や、1つの領域の体系を掴むちょっとしたコツみたいなものがわかってくる。
わかってくると、他の領域ももっと知りたくなり、さらに読書の幅を節操もなく広げていく。
こうして、段々と自分の部屋は本で埋めつくされるようになり、カバンに数冊の本を常備することがデフォルトとなり、気付けば1ヶ月に10冊どころではない本を特に無理せず読むようになっていた。
多読、乱読、雑読
今でこそ、色々な人が書いている読書法的な本を面白く読んでいるものの、本を読み始めた当時は「正しい本の読み方」のようなものは全く知らず、また意識することもなく読み続けていた。
今振り返っても、それでよかったと思うし、これから本を読んでいきたい、という方にも是非、赴くままに勝手気ままに読み続ける、ということを個人的におすすめする。
型などというものは、後からいくらでも学べる。
まずは本を読んで面白いと感じるために、
とにかく沢山の本に触れる(多読)、
領域や順番など、何も気にせず手当たり次第に読む(乱読)、
そしてつまみ食いでも良いので読み散らかす(雑読)、
ということを意識して、節操なく本を読むことが大事だと僕は考えている。
何事にも量の関数が作用する、ということはあると思っていて、読書についてもまずは量から攻めていくことで、後からどんどん質に変換されていくものだというのが僕の信じていることである。
読書は、持たざる者が這い上がるための重要な武器
読書にハマったことは、僕にとって良い効果がたくさんあったが、何より最も重要なのは、自分の頭を鍛え、能力の天井を押し上げることにつながる、ということだ。
持たざる者(凡人)である僕にとって、コスパの高い活動である読書に多くの時間を投入したことで、知的体力と新たな領域を自ら学んでいく力、複眼的に物事を見ていく力など、社会で生きていく上での地力を向上させることのメリットは大きい。
決して最初は将来役立つと思って読書を始めたわけではないのだが(むしろ、本など読んで何の役に立つのかと考えていたタイプだ)、一度ハマると、これほど自分の頭に刺激を与えていける活動をやめることは考えられれず、僕の生存戦略における最重要のファクターとなっている。
今は乱読以外にも様々な本の読み方を身につけ、読書による自分なりの知的な深め方が前よりも更にわかってきていると思うが、読書をし続けているということ自体は大学時代から全く変わらない。
今後は、読んでいる本や、そこから得た学びもよりアウトプットしていって、自分の内に閉じて読書するだけでは得られない深め方を体得していこうと思う。