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学びの集積

0014冊:うひ山ぶみ(本居宣長著、講談社学術文庫)

本居宣長が描いた古学の入門書。古事記をはじめとした古学への取り組み姿勢や方法論などを初学者に向けて解説している本だが、古学を志す人でなくても一読すると様々な示唆が得られる内容だ。

国学で名を残した超一流学者の指南本であるため、随所につい膝を打ちたくなるような指摘が散りばめられているが、今回は特に僕が注目したいポイントを2点取り上げたい。

1つ目は、本居宣長が示すプロフェッショナリズムである。初学者向けとはいえ、古学へ本気で取り組む人に向けて書いた本であるから、プロの取り組み姿勢を真正面からぶつけている。例えば以下のような言葉がある。

…どういう分野の学問をやるかは、他人がこれと押し付けることはできない。自分で選ぶべきものである。
いかに初学者とはいえ、学問に志すほどの人なら、まったく無垢の子供ではないのだから、自分はこれをやりたいというものがあるはずである。また、人それぞれに好き嫌いがあり、向き不向きもある。好きでもないことや不向きなことをやるのでは、どんなに努力しても、その成果は少ない。
どんな学問でも、その学び方の次第を、通り一遍の理論でもって、こう知ればいいと教えることはたやすい。だが、教えたとおりに実行して、はたしていいものなのか、じつはそんなことは予測できない。…
うひ山ぶみ 総論 「みづから思ひよれる方」 口語訳より抜粋)

独立した個人は、探求する領域や対象も、学ぶ方法でさえ、自分で選ぶべきということだ。だからこそ本書においても、古学の真髄を見るために外すべきでないポイントは十分に示すものの、「古学とはこういうものであるから、このように勉強しなさい」とは決して言わない。学問は他人に押し付けられてやるものでもないし、他社が優しく導いてくれるものでもないというプロフェッショナル論である。
そういった考えは、次のような言葉にも表れている。

…古人の歌はみな優れたもののように心得て、ただ及びもつかないとばかりに思って、そのよしあしを考えてみようともしないのは、まことに愚かである。…
…ほんとによいものかそうでないかとよく考え読む、及ばぬまでも、色々と評論して読む、歌のよしあしを見分ける修練にこういうやり方以上のものはなく、大いに有益である。
うひ山ぶみ 各論 「さまざまよきあしきふり(その3)」 口語訳より抜粋)

古学の大家である本居宣長だから、先人の伝統を変わらず受け継ぎ、それを形を変えずに後世に残していくようなイメージを持っていたが、やはりどんな領域においても革新を起こすのは徹底して自分の頭で考え、自分が正しいと感じたりやるべきだと思ったことを追求できる人間なのだ。

2つ目は、本居宣長が示す古学の真髄に迫る上でのアプローチである。非常に面白い観点なのでぜひ紹介したい。
著者は古学において重要なテクストをいくつか体系立てて示しながらも、それらをいきなり読んでもテクストの真意を掴むことはできないのだという。何故なら、読者として想定されている当時の日本人は「漢意(からごころ)」に強く影響されているため、純粋な「大和魂(やまとたましい)」で書かれた大昔のテクストを本当の意味では理解できないからというロジックだ。そのため、まずは遠回りなようでも大和魂を掴むために勉学を積み、その上で初めて古典が読めるようになるという。間違った眼鏡をかけていると、間違ったものしか見えないというわけだ。

これを現代の文脈に置き換えると、英語によるコミュニケーションに同様の話が当てはまるのではないか。ビジネス文脈では問題なくコミュニケーションできる人であっても、出張先・駐在先で現地の人が集まるカクテルパーティのコミュニケーションには非常に苦労するというのはよく聞く話だ。これは、コミュニケーションの場に応じて、「こころ」の影響度が異なると考えられる。
ビジネス上のコミュニケーションは、相対的に国や文化の影響を受けにくい。ビジネスというものは、そもそも個人というバラバラの存在を1つの目的の下に纏め上げ、成果を出していくものであるから、なるべくあらゆる人の「共通言語」で話せるように設計されている。
一方で、カクテルパーティで繰り広げられるコミュニケーションは「こころ」の影響が強い。多文化・多国籍の人が全員初めて集まったようなパーティなら別だろうが、現地の人が集まるパーティでは、現地で共有されている文化やコンテキストを前提にコミュニケーションが行われるからだ。日本人の飲み会で当たり前とされていることは、おそらくその殆どが通用しないだろう。
本居宣長は、古学で参照すべきテクストは「こころ」の影響が強いテクストであるから、自分たちが持っている「こころ」のままで挑んでも本当のところはわからないと言っているのだ。

更に言えば、言語を同じくしていても、かなり異なる「こころ」を持っているケースも多く存在する。例えば僕はこれまでいくつかの会社に所属していたことがあるが、それぞれ全く異なる文化を有しており、ある会社では良いとされているコミュニケーションが、別の会社では逆に嫌われるコミュニケーションになってしまう、ということも多く観察された。会社以外にも様々な軸があり、それぞれが「ムラ」になっていて、様々なしきたりを有しているような感じだ。

現代のように世界がフラット化し、コミュニケーションコストが劇的に下がっている状況では、ついつい自分の「こころ」で相手を理解できると考えてしまうが、実はそれは微妙な差異を無視してコミュニケーションしており、どこかで少しずつボタンを掛け違えているのかもしれない。そんなことを気づかせてくれる本である。