あのフロイト博士によるモーセに対する考察。分量が多くなく、論旨もクリアであるため取り組みやすい本。モーセがエジプト人であったという仮説を立て、ユダヤ教の歴史を振り返りながら1つの論考として紡ぎあげていっている。
本書の醍醐味は、フロイトの驚異的な仮説構築能力をこれでもかと味わうことができる点だ。モーセといえばユダヤ教・キリスト教において最も重要な預言者とされており、ヘブライの民をエジプトから約束の地へと導いた人物である。「出エジプト記」にはヘブライ人だと記載があり、ヘブライの民を導いた人物なのだからモーセがヘブライ人だとするのはとても自然だ。然しフロイトは、このモーセがエジプト人であるという仮説を起点とし、自身の専門である精神分析の考え方を応用しながらユダヤ教の成立を分析していく。
言ってしまえば、フロイトが提示しているのはただの一説であり、その説を堅固とするファクトが十分に存在するわけではなく、本書の「第一論文」のパートでもフロイトはその点を認めている。僕はユダヤ教の歴史を専門的なレベルで理解しているわけではないが、おそらくかなり異質な説だろう。
しかし、一読者の視点に立って言わせてもらえば、本書は抜群に面白い。精神分析の理論を立脚点としているから、アカデミックな意味での歴史考証にはなっていないだろうが、つながるはずもない点と点が次々と線を描いていき、1つの論として組みあがっていく様を見るのは読み物として非常に爽快である。出エジプトが起きたモーセを含む人々の心の在り様を捉え、非常に解像度高く仮説をとして練り上げていく。まるで当時の人々がフロイトに「憑依」したかのようなリアリティだ。フロイトの仮説構築能力が驚嘆するようなレベルであること、そしてそういった人物だからこそ精神分析という領域を切り開くことができたことがよく理解できる。
僕もコンサルタントとして仕事をする中で、仮説構築の重要性を僕なりに理解し、鍛えてきたつもりだったが、フロイト博士の圧倒的な力を前にすると、自身の仮説構築能力がいかに貧弱だったかを思い知らされる。仮説を構築する上で押さえるべきポイントはいくつかあるが、僕は「他者の視点に立って徹底的に考えられる力」が最も重要だと考えている。仮説とは文字通り「仮の説」であり、まだ起きていないことやまだ証明されていないことに対して、いかに精度高く「おそらくこうではないか」という説を提示するということだ。確定していないことを考えるわけだから、ある種の妄想力が必要とされ、様々なステークホルダーがいる中、それぞれの集団が何を考えているかを如何にリアリティをもって妄想できるかが、仮説の精度に関わってくる。他者に「憑依」して物事を考えられるかどうかが鍵なのだ。
当たり前の話だが、一般的に時代や文化に距離があればあるほど憑依は難しい。ユダヤ人であるフロイトはモーセや出エジプトに多くの知識を持っていたとは思うが、なにせ3000年以上前に起きたとされる出来事だ。そこまで時代を遡って当時の人々が持っていた心の動きを読み解くことなど、常人にできるものではない。
僕もフロイト博士と同じレベルに達することは難しいかもしれないが、仮説構築の真髄を見ることができ、こういった「天井」を知ることは今後の能力開発においてとても重要なことだ。
それにしても光文社古典新訳文庫は本当に読みやすい。こんな文庫を世に送り出してくれたことへ感謝しながらいつも読んでいます。