古典と言われる書物がどのように成立するのかを、文献学の観点ではなく本を受容する読者の観点から説明している本。1つ1つの章が短いエッセイのようだが、本全体としてはつながりを持っており、読み進めていくと「古典」という言葉の周りを包んでいる皮を一枚一枚剝がされるような、不思議な感覚を覚える。
古典、という言葉を聞くと、昔から多くの人に読まれ、高く評価された確固たる1冊が存在しているとついつい想像してしまう。しかし本書では、古典とは最初から確固たる存在だったわけではなく、読者に受容され、改変され、それがまたアップデートされというプロセスが幾度となく繰り返され、もうこれ以上は大きく変わらないというレベルにまで昇華されることで、ようやく形作られるものだということが、あらゆる観点から示されている。
これは多くの人にとって直観に反する主張なのではないかと思う。古典と言われる書物の著者が最初に書いた言葉、それこそが最も高く評価されるべきもので、本当の意味で「古典」と呼ばれるものだという意識が、僕らの中には埋め込まれている。初版に価値を置く人は大勢いるが、第53版こそ最上だと考えている人は少ないだろうし、ましてや原作者とは別の人が解釈し、手を入れた本を、これこそが古典にふさわしいという人はもっと少ないだろう。
しかし本書を読むと、そういった考え方は古典をある一面でしか捉えていないということがわかる。最初から古典である本は存在しない。古典は形作られていくものである。そして、「異本」なくしては、古典は形作られないということが、よくわかる。
なぜ古典が形成されるうえで異本が必要なのかという点は、ぜひ本書を手に取って読み解いてもらいたいが、僕の言葉で簡単に言うと、テクストというものはそれが読まれる文脈によって解釈が変わってくる性質を持っているものだから、ということに尽きる。数学的記述ならば、読み手によって意味が変わるということはない。しかしテクストは、それを読む人が誰であっても、何を考えていても、どんな時代でも、意味するところが完全に不変ということはあり得ない。テクストは、その内に必ず大きな余白を残している伝達ツールである。
ということは、書かれたテクストは、書き手の手を離れた瞬間に読み手の解釈に委ねられ、その意味するところがどんどんと変化していく。テクストの持つ余白が異本を生むのである。時代を経て、限りなく多くの人に読まれ、それでも読み手が変わるごとに違う意味を提示し続けることができたテクスト - それが古典と呼ばれるようになるということだ。
古典というシンプルな言葉に秘められた複雑性を解き明かすことができるだけでなく、テクストというものを平面的ではなく、もっと立体的に理解し、その奥深さを感じることができる本書は、同じものを違った視点で、かつより深く意味を追求していくという人文的体験を欲している方に好適である。