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学びの集積

0032冊:勉強の哲学(千葉雅也著、文春文庫)

勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 千葉 雅也(著/文) - 文藝春秋

哲学者の千葉雅也氏が書いた勉強論。勉強の方法論にも言及している点では実学書のようにも見えるが、一方で「勉強」という、僕たちが普段は普通に受け入れている言葉を深く掘り下げ、その働き・意味を取り出しているという点では、この本の真の姿は「哲学書」と映る、良い意味で不思議な本だ。ハイレベルな議論を平易な言葉で展開することができる著者の稀有な能力が、実学書にも哲学書にも見えるという不思議な二面性を可能としている。

本書では、「ノリ」という(これまた耳なじみの良い)キーワードを起点に、勉強とはどういうものかという点が深堀りされる。普段は、自分が置かれている環境で求められる「ノリ」に無意識ながら合わせて生活しているが、勉強はそこから離れていく行為、つまり「ノリが悪くなる」ものだとされる。しかし、人間は環境依存的な存在であるから、1つの「ノリ」から離れても、最終的にはどこかの「ノリ」に合わせて生きていくことになる。つまり、勉強することで1つのノリから別のノリへと移ろっていく、ということだ。

非常に面白い議論の展開なので、ぜひ詳細は本書を読んでみてほしいが、今回は僕がこの議論を通じて考えたことを2つ紹介したい。

1つ目は、「初めからその環境にいて、そこから一度も離れていない」状態と、「初めにいた環境から一度離れ、別の環境にいた後に、最初の環境に戻っている」状態は、外形的には同じに見えても、その内実は全く異なるということだ。本書で取り上げられている「勉強」で言えば、ずっと1つのノリで生きていることと、別のノリも経験したうえで、一周回って最初のノリに戻ってきて生きていることは、同じに見えて異なるということを言っている。

何が異なるのかというと、その環境を自分で選択して戻ってきている人には、ある特定の環境に「チューニング」する力が備わっているが、一度も1つの環境から離れたことがない人には、チューニング力はない(というよりも、チューニングの必要がないので顕在化しない)。結果だけ見れば、その環境に合わせることができているので両者は変わらないように見える。しかし、チューニング力を持っている人は、他の環境にもチューニングし、現在の環境にはないものを理解し、持ち込むことができる。所属している環境に、まったく別の見方や情報をもたらし、刺激を与えることで、環境の発展を促すことができるのだ。ビジネスの文脈でも「越境人材」という言葉が注目されたことがあったが、こういった人材が備えている力こそチューニング力であり、組織に健全な刺激と新陳代謝の促進をもたらすからこそ注目されたのである。

2つ目は、「無自覚にノリを外してしまう」ことと、「意識的にノリを外す」ことの違いだ。1つ目のチューニングの話とつながる部分もあるのだが、ノリを外すことで環境に新たな刺激を与えることができる。但し、その刺激は適切な強度とタイミングで提供することが肝要だ。刺激が強すぎたり、タイミングが悪すぎたりすると、その環境では受け入れられず、結果として何も変化を起こせない。あまりにも振り切ったものは、受け入れる側のキャパシティを超えてしまうのだ。

だからこそ、「あえて」ノリを外す必要がある。受け入れ可能な水準に収まるが、かといって刺激が少なすぎてスルーされないような、適切なレベルの「外し方」が求められる。仕事においても、「外部の忌憚のない意見をいただきたい」という言葉を額面通り受け取り、刺激の度合いをコントロールせずに言いたいことを言ってしまって、聞き入れられないというケースはよくある。もちろん受け入れ側に問題があることもあるのだが、外部の目線を持ち込むという自分のバリューを確実に提供するためには、「あえて」外す技量が必要となる。私見だが、仕事のできる人はこのあたりのセンスが抜群に良い人が多い。

解説を書いている佐藤優氏が「究極のビジネス書」と書いている通り、本書は「勉強」を通して非常に深い議論を展開することで、結果として勉強以外のテーマにも通ずる実践的な示唆を多く提供している本だ。内容はハイレベルであるにも関わらず、表現は平易で、誰にでも取り組みやすい。ビジネスパーソン、哲学に関心のある人、現在進行形で勉学に励んでいる学生など、幅広い人にお勧めできる。700円+税ではお釣りがくるどころか、お釣りの方が高くなるくらいだ。