「ローマ人の物語」の著者である塩野七生さんが古代ギリシアの歴史を物語としてまとめた本。当時の人物や出来事が生き生きと描かれており、まるでついこの間起きたことだったかのように感じられる。古代ギリシア人の話は地理的にも時代的にも遥か遠くの出来事であるから、本来は僕たち現代日本人にとって理解のハードルは相当に高いはずなのだが、著者が双方の架け橋となり、言語的な翻訳だけでなく文化的な翻訳も行ってくれているからこそ、僕たちはこの本を通じてギリシア人の物語を楽しみながら学ぶことができる。
本書の個人的なハイライトは、何といってもアテネの天才戦略家テミストクレスが活躍するパートだ。僕はどうしてもテミストクレスについて知りたくなり、テミストクレスの話を読みたくて本書を購入した。
テミストクレスはアテネで執政官も務めた政治家で、軍略家でもあった人物だ。彼は類い稀な戦略的思考力とセンスを持ち合わせており、まだまだペルシアに比べて脆弱だったアテネにおいて海軍力の強化を推し進め、サラミスの海戦では非常に高いレベルの戦略を立案・実行し、圧倒的に劣勢だったペルシア戦争の戦局をたった一戦でひっくり返してしまった天才である。(ちなみにその後は陶片追放によりアテネから追い出され、かつての敵であったペルシアに身を寄せて生涯を終えるという数奇なストーリーを持つ人物でもある。)
テミストクレスの天才性は本書で存分に味わってほしいが、僕の考えでは彼の凄さは「長期的視点で戦略を描く力」と「目的のために手段を変えていく柔軟性」の2つに集約される。
まず「長期的視点で戦略を描く力」について。彼のペルシア戦争に向けた準備はなんと10年以上前から始まっており、驚くことにペルシアが近い将来ギリシアへと攻め入ってくること、そして海軍力が戦いのポイントとなることを見通していた。現代の僕たちから見ると「海軍力を高めるなんて割と普通の考えじゃないの」という感じだが、当時のギリシア人が置かれている状況を考えてみるとかなりすごいことだ。
当時のアテネは完全なる陸軍国家であり、ファランクスという独自の陣形で戦うことが当たり前だった。アテネだけでなく、他のポリスもファランクスで戦っている。ファランクスを前提とした高い陸軍力こそギリシア諸国家(ポリス)の強さであり、いわば勝ちパターンだったわけである。そんな常識がある中で、冷静にペルシアの軍事力と特徴を捉え、戦争のポイントを見極め、海軍力の強化という長期的戦略に落とし込んだテミストクレスは只者ではない。
普通の人は、高い陸軍力を誇る国家に所属していて、周囲の国家も陸軍力で勝負している環境に置かれていたら、その陸軍をどう強化していこうかと考えてしまうものだ。大抵、現状を起点として積み上げ型で考えてしまう。ところがテミストクレスのような優れた戦略家は、現在の強みである陸軍力は1つの要素として認識しつつも、「将来どうあるべきか」を起点に逆算して考える。どうあるべきかを考えて、明らかに現状の延長線上では到達できないとわかったら、「どうやったら到達できるか」を考えることが出きる。当たり前のようだが、人の思考や発想は意外とその時に置かれている環境に制約を受けてしまい、将来のあるべきを起点にして考えることは難しい。
これに加えて、テミストクレスには「目的のために手段を変えていく柔軟性」がある。陸軍国家であるアテネで海軍力を強化するには、当然ながらかなりの時間と労力がかかる。多くの人は、ペルシア軍との戦争が起きることすら想像できていないし、もし戦争が起きても当然に陸戦を想定してしまっている。テミストクレスが「海軍力強化が必要だ」と言っても、「え?なにそれ」という感じだろう。
だからこそテミストクレスは、ペルシアとの戦争では海軍力がキーとなる、という説明をあえて捨て、「コリントスという他のギリシア国家がアテネよりも高い海軍力を有しているので、対抗しましょう」という説明に切り替えた。もうちょっと普通の人が想像しやすい説明にスイッチしたのである。戦略は実行できなければ画餅と化すが、テミストクレスはただの戦略屋ではなく、政治家であり、軍略家でもある。「建前を使ってでも、やりきらなければ意味がない」というドライかつリアリスティックな視点を持って、国全体を巻き込んで変革を実行していったのである。
こういったテミストクレスの天才性を味わうだけでも価値があるが、もちろん本書は、テミストクレス以外にも多くの面白い人物が様々な歴史を創っていくプロセスを理解できる、素晴らしい本だ。何より読みやすいので、古代ギリシアの歴史に関心がある全ての人におすすめである。