nano-blog

学びの集積

0051冊:実力も運のうち 能力主義は正義か?(著:マイケル・サンデル、訳:鬼澤忍、早川書房)

実力も運のうち 能力主義は正義か? マイケル・サンデル(著/文) - 早川書房

日本でもすっかり有名になったマイケル・サンデル教授による、能力主義(メリトクラシー)の実態と論点について切り込んだ本。

本書を読むと、驚きと発見がいっぱいだ。米国のメリトクラシーについて書かれた本だが、日本に住む僕らにもメリトクラシーという考え方がどれだけ深く影響しているかを改めて認識させられる。

 

そもそもメリトクラシーとは、貴族等の高い身分に生まれた人が社会を統治する状態から、能力の高い人が社会的に高い地位についたり、重要な仕事に携わったりする状態へと志向するところから始まった。身分の貴賤ではなく、個人の能力と才能を評価するという、「機会の平等」を担保してくれるような考え方だ。

個人の才覚で社会の上流に昇っていける考え方は一見何の問題もなさそうだが、実は「個人の才覚」を「生まれてから享受した環境」と切り分けることは難しい。本書によると、米国のアイビーリーグに代表されるような有名大学に入学する生徒は、その多くが裕福な家に生まれている。つまり親が高いお金を教育に投じることができたので、子供の学力が高くなり、結果として有名大学に入学する可能性が高くなるということだ。日本においても、東京大学に入学する学生の親は、その多くが高年収であることが少し前に話題になった。(東大生の親「年収950万円以上が半数超」経済格差の不条理 | 幻冬舎ゴールドオンライン (gentosha-go.com)

こういった事実を踏まえ、経済環境に左右されずに適切な「教育」が享受できれば、より平等に近づくということで、国や社会は様々な教育の機会を提供する。大抵の先進国は、奨学金等の経済的に恵まれない家庭への教育支援制度が充実しているのはそのためだ。これは言うまでもなく素晴らしい取り組みである。

しかし、ここで問題は終わらない。「たまたま家が裕福だったりそうでなかったりすることで発生する不平等」を是正するのなら、「たまたま頭が良かったり、仕事ができたりすることで発生する不平等」も是正すべきではないのか、という問いが発生する。現代社会では、金銭的にはそれを税金で再配分することを通じて一部実現しようとしているわけだが、多くの人がその必要性を認める奨学金とは異なり、高所得者(その多くは高学歴者)にどれだけの税負担を課すのが適正なのかは、立場によって大きく見解が異なる論点である。これは即ち、「どこまでが個人に起因する要素で、どこからが生まれや環境に起因する要素なのか」という問いに対する明確な答えは存在しないということだ。

 

メリトクラシーという考え方は、個人に平等の機会を与えようとするという点では非常に前向きな考え方だが、その裏には「上手くいくのもいかないのも、全て自己責任」というスタンスがある。しかしながら、上で見た通り、突き詰めて考えていくと人生の全てを自身の手でコントロールできているなんてことはなく、人によって考え方は異なれど、多かれ少なかれ「たまたま」の要素が存在するのだ。

ところが、メリトクラシーで(個人要因なのか環境要因なのかは置いておいて、結果として)勝ち上がった人は、自分は今ある地位や報酬に見合う努力をしてきた(=個人の力で勝ち得た)と考えがちだと、本書では指摘されている。「たまたま、ラッキーでハーバードに入れました」なんて言う人はいないということだ。

 

僕たちは、好きでもそうでなくても、メリトクラシー社会に生きることは避けられないし、今後もメリトクラシーの度合いは強まることはあれど、弱まることはないだろう。そんな中で決して忘れてはいけないと本書を読んで感じたのは、次の3つである。

  1. 上手くいっても、全てが自分の努力のおかげだと思わず、「たまたま」に感謝する
  2. 自分が享受できた「たまたま」とその結果としてのメリットを、少しでも周囲や社会に還元する
  3. 社会的・経済的に得られるメリットと、そのメリットを享受している人の本質的な価値に関係性はない

要は「謙虚たれ」ということだが、メリトクラシー社会に生きていると、世の中の全てが、画一的な基準でピラミッドのようにヒエラルキーが組まれていると勘違いしてしまいがちだと思うため、メタ視点で自分を捉え続けることが重要だと強く感じだ次第だ。