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学びの集積

0054冊:汚穢と禁忌(著:メアリ・ダグラス、訳:塚本利明、ちくま学芸文庫)

示唆に溢れ、強い知的刺激を与えてくれる、価値ある一冊である。片手に収まる文庫本である本書を通し、広く深い世界があることを教えてもらえる。こういった水準と厚みを誇る本を少しでも理解できるのは、読書をする者の醍醐味だ。

 

一方で、間違いなく難物であり、私のようなアマチュア読者にとっては理解が進みにくいことも事実である。私の場合、本書をちょっとずつ読みながら、全体像が何となく理解できるようになるまで結局数か月を要した。他に読んでいる本も簡単な本ではないはずだが、本書と比較すると読みやすく感じるくらいだ。

その理由はいくつかあるが、まず著者が前提としている知識や理解のレベルが高く、ついていくのが大変である。デュルケームやフレーザー、ロバートソン・スミスなどホイホイと出てくる上に、参照するだけではなく段階的に反証しながら議論が展開されるので、普通に本を読むスピードで目を通していると全く議論の展開についていけない。

加えて、これは著者の文章のスタイルなのだと思うが、著者の主張が掴みにくい部分がかなり多い。引用、それに対する付言、反論、比較、そして具体的事例の参照。こういったものが折り重なった中に、著者の主張が散りばめられている。メインの主張はこれで、その主張をサポートするための事例と検証はこれ、といった形でスパッと論旨を示してくれる文体では決してなく、それがまた私のような素人に対して高い参入障壁を築いている。

 

それでも、ページを捲るたびに新たな発見があるし、興味深い視点を与えてくれる本であり、だからこそ難儀しながらもちょっとずつ理解を進めようという気にさせてくれる本だ。

今回は、いつもの読書録とはスタイルが異なるが、読み進める中で何とか理解した内容を、備忘と今後の更なる学びのために記しておきたい。少しでも前提知識を持っている方からすると浅い理解かもしれないが、あくまで素人が読んだ理解と感想ということでご容赦いただこう。

本書全般

  • 通底している考えは、汚穢とは「秩序だった体系」が存在するときに、その秩序が侵犯されると、秩序の内部から発生する力だ、という考え方である。
  • 過去の各種研究では、「汚穢」とは古代社会からの残存物であり、宗教や現代社会の本質とはもはや関連が薄いという考え方もあったが、それは古代と現代に大きな隔絶があるという前提で観察していた結果としてのものの見方であり、「汚穢」を考える上での本質的なポイントではない。
  • 汚穢は、その存在によって体系の内外を明確化することで、体系の外縁を形作る。そして、体系の内部における境界線を明確化し安定させることに加え、体系の内部で複数の原理がぶつかり矛盾が発生する際に、その矛盾をうまく回避し平定する役割も持っている。

 

第1章:祭祀における不浄 ※第2章以降に影響するためやや詳述

  • 聖潔と不浄という2つの相反する考えは、時に混同されることがある。両者は「隔離」という概念で共通している。
  • 原始的宗教では、不浄が物理的状況で判断され、高度な宗教(キリスト教が想定されている)では、不浄は行為者の動機(つまり気持ちの問題)で判断されるという考え方がある。
    • この考え方によると、高度な宗教の側から見れば、原始的宗教では神聖と不浄の規範が区別されておらず、高度な宗教の内部では、不浄の規範は消失している(物理的に不浄でも、気持ちが不浄でなければ不浄とはならないので、行為者の動機が不純でなければ不浄は発生しないため)。
  • しかし現実的には、高度な宗教にも不浄の規範が存在している。これは不合理な規範であるため、ロバートソン・スミスは古代社会の「残存物」として整理した。
  • こういった考え方と並行して、キリスト教においては、科学の発達とキリスト教の啓示を両立させるために、宗教から啓示的要素を排除し、倫理的原理(唯一神との安定した道徳的関係が真の宗教というスタンス)を中核に置くという考えが出てきた。そこで、今も残る迷信や呪術的儀式は、宗教の本質ではないという考えが強くなった。
  • 「残存物」と「宗教は倫理」という考えが重なり、宗教に残る呪術はあくまで残存物であるという整理を人類学者は取るようになった。ロバートソン・スミスは、カトリックが儀式に傾倒していることも呪術的儀式と結び付けて論を展開し、この問題を追求した。
    • 然し、呪術的儀式は未開性の兆候と断定することはできず、また高度な倫理的内容が高度な宗教の証ということもできないはずである。
  • ロバートソン・スミスの影響は、デュルケームとフレーザーに継承されている。
    • デュルケームは呪術=原始的衛生法という考え方を取り、関心の外に置き、宗教内の正式な儀式に着目した。彼は宗教的実体は社会の集合的観念であり、倫理の表現であると考え、非物質的であるが故に存在が流動的であることから、儀式と禁制によって保持する必要があると整理した。
      • 然し、この考え方だと聖性のあるものも感染性を持つと考えられ、呪術との違いが見えなくなる。
    • フレーザーは反対に、呪術的残存物に着目した。彼の調査と分類は有益だったが、未開人と自分たちの思考が全く異なると考えていたため、文化に進化論を持ち込んでしまい、古代人は呪術に支配された思考であるという形に理解を歪めてしまった。
  • フレーザーによる負の影響は多大であり、進化論的考え方を固定化させてしまった。我々は、「古代宗教は不浄を物理的に判断しており、呪術に支配されている。倫理的に高度な宗教を持つ現代人とは全く異なる思考を持っている」という思い込みを捨てないと、「汚穢」について正しく考察することができないだろう。

 

第2章:世俗における汚穢

  • 医学的唯物論(浄/不浄を衛生的観点で説明しようとする考え)は、有益ではあるが万能ではない。この考えだけで原始的祭儀の全てを説明しようとする論者もいるが、ナンセンスである。
    • 一方で、衛生的観点を全く排除するのも有害である。原始的祭儀の一部を説明する要素となりうる。
  • 現代ヨーロッパ人と未開人の「汚れ」に関する考えには、2つの大きな差異がある。まず、汚物を避けるのは現代ヨーロッパ人にとって、宗教的問題ではなく、衛生学的・美学的問題であること。そして、現代ヨーロッパ人の汚物に関する考えは病因研究と密接に関わっているという点である。
  • この2つの点を捨象すると、「汚物とは場違いなもの」という定義が残る。場違いということは、そこには秩序ある体系があり、その秩序が侵犯される、という前提が存在する。これは、未開人にも共通の定義と言える。
  • 即ち、不浄の問題には「秩序」という考えを通じて取り組まなければならない。

 

第3章:レビ記における「汚らわしいもの」

  • 聖性=完全性と言える。その「完全性」は、その時代のある民族にとって「完全」だと思える事象や対象、現象があったということ。
  • 当時の人たちにとって「完全」だと思える事実があり、そこから原理に遡って慣習として規定されたのではないか(本章においては、レビ記で挙げられている食べて良いものの定義が例として取り上げられている)。演繹的に慣習を定めたわけではないはずなのに、現代人は厳密に慣習を捉えて解釈しようとするため、理解が進まない。

 

第4章:呪術と奇蹟

  • 呪術の存在を信じることと、儀式を行うから呪術が発生すると考えることは異なる。科学的には説明しえない呪術的要素を信じていても、儀式によって呪術が起きたと信じるとは限らない。
  • 儀式は呪術を起こすためのものではなく、社会において、人々の知覚を変容し、記憶を固定化し、宗教を社会にビルドインする役割を持つ。

 

第5章:未開人の世界

  • ヨーロッパ文化は、客観性を確保して物事を理解すること、そしてそのためには個人の独立した人格・視点が確立していることに重きを置いている。一方で、未開文化は個人と自然が一体であり、文脈に溶け込んでいる。故に、ヨーロッパ文化のような意味では、個人の人格は重視されない。しかし、自然も人格を持ったものとして理解する意味においては人格的と言える。
  • 未開人は論証的推論を嫌うのではない。未開人の関心は、一般的かつ客観的法則ではなく、個別の事情がなぜ起きたのかに寄っている。なぜなら、社会を協力的に組織するためには一般的法則だけでは不足し、具体的事象を説明するための理由が必要で、そのために信仰が必要なら利用される。
  • ちなみに、キリスト教やユダヤ教は、実際の社会生活との相互関係が断ち切られているので、未開的とは言えない。

 

第6章:能力と危険

  • ①外的な能力(≒制御しうる能力、形式を守る能力、社会的に危険かつ曖昧な役割を持つ人たちが持つ能力)、②内的な能力(≒制御しえない能力、形式を脅かす能力、権威の座にある人が持つ能力)、の2つが存在する。2つの能力は、各役割を持った人がそれぞれの役割を演じることで社会の形式を表わそうとしている。
    • 曖昧な役割を持つ人たちの能力を見ると、形式側の人たちは曖昧な部分を抑制しようと思う(形式を維持したいと考える)。
  • 汚れはそれとは異なった種類に属し、汚穢の危険は形式が侵されたときに触発されるという、第三の能力に分類される。
  • 即ち、社会には3つの能力があると推察される。①正式な構造を代表する人たちに行使される能力(上記の外的な能力)、②2つの構造の間に住む曖昧な人たちが不可解に発揮する能力(上記の内的な能力)、③構造に内在し、形式の侵犯に対して発動される能力(汚穢の力)。
  • 但し、妖術は②のパターンであるにも関わらず意識的に行使できる場合がある。妖術を誰でも獲得できるということは、一定のプロセスを経れば誰もが意識的に能力を行使できるということを示している。政治権力が変わりやすい社会においては、妖術と①の外的な能力は類似する。

 

第7章:体系の外縁における境界

  • 人間の肉体を使って行使される儀式は、個人の心理的側面だけを表わしているのではなく、社会的関心も多分に表している。(当時の心理学的伝統を否定)。
  • 祭式は特定の文化を創出しそれを維持する(人々に社会を熟知せしめる)。

 

第8章:体系の内部における境界

  • 社会を支える倫理を、禁忌が支えている。但し、倫理的要請と禁忌は完全対応ではない。補完関係にあり、社会を支える要素となる。

 

第9章:体系内にある矛盾

  • 超直接的な男性支配の社会、社会的婚姻の仕組みが強力な社会、これらの社会においては穢れがほとんど不要となることがある。
  • 但し、多くの社会では男性もしくは女性主体の婚姻関係がありながら、性の自由を確保するために、性に関する汚れがその矛盾を回避するために構築される。

 

第10章:体系の崩壊と再生

  • 穢れの本質は、ある秩序における旧きもの=場違いなものは秩序に対する脅威であり、新しい場の聖潔が失われることにある。然し、そのうちに旧きものの形が失われ、不安を起こすことがなくなる。完全に崩壊すると、新たな秩序を生み出す無秩序へと還る。